三行棚字

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【 解説・11 】
《前段・三/ⅱ》(8、9、10/10行)

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○この状況に対し、何もしないという訳にはいかない。
(各家から集められた文書類を見ると)歴史上の同じ出来事を記した物も多くある。書によって、紙面をふんだんに使い事細かに著している物もあれば、概略だけを数行で纏めているだけの物もある。その様な差はそれぞれ有ったとしても、表現の仕方が異なっていたり、由々しきは、内容(事実)までも同じではないものが混ざっていることである。

先人の教えを考えて正さなければ、礼儀道徳がそのうち廃れてしまう。今ここに見直して補繕しなければ、社会規範が絶えてしまうと思う。

 

莫不]ナサズコトナシ。行わない事など無い。二重否定の語。棚字として置かれているが、その行に対してではなく三行全体に係る。三行棚字。

「三行棚字」とは、三行を一組とし、中央の行の上部にその三行全体に係る文字を置いた一文型をいいます。古事記の中では何ヶ所もこの形が使われているのを見ることができます。(この文型に対して、特に名称も無いようなので、ここでは勝手に三行棚字と名付けて呼ぶ事とします。)

雖步驟各]◯步驟/カチ・カケ。一歩一歩と、駆け足と。◇集められた多くの資料について、文章が詳細に書かれているものや、簡略に纏めたものなど。◯雖・各/オノオノと・イエドも。書面の様は色々ある、とは云っても…。

◇この上句の末字「各」と次(下句の頭)にある「異」とを合わせて「各異」とする解釈が一般的です。漢文などでしばしば見かける各異の文字はオノモオノモ・コトニシテ、といった読み下しが為されます。
ここにある格異の二字も同様に熟字である…とするならば、上句は「雖步驟各異」にしなければなりません。これを主張する場合、序文・前段全体の構図(古事記「序」の姿、参照)の中で、この一行のみを上句五字にするべき合理的理由の提示が必要となってきます。

異文]◯異/コトナリ。表現の仕方が違っている。◯文/アヤ。文字を綴ったもの。書き物。[質不同]◯質/マコト。実際の事。◯不同/オナジニアラズ。内容が同じではない。嘘が混ざっている。

◇漢語に於ける文質とは、外形と内容、外観と実質、などを表わしますが、ここでの「文」は書き用(文章表現の仕方)をいい、「質」は記述が正しいかどうかをいいます。分けて使っているのであって、文質を一単語としては扱いません。

稽古以繩]◯稽古/昔の事を考え調べる。◯以繩/モチテ・タダシ。繩は歪みを直す、過ちを正すの意。[風猷於既頽]◯風猷/教化の道。風俗。ならわし。◯於/ここに。◯既/ハヤ。スデニとも読むがここでは合わない。◯頽/スタレ。崩壊。衰退。

照今以補]◯照今/イマニ・テラシ。これを機に見直す。◯以補/モチテ・オギナイ。誤り、偽り、の修復。[典教於欲絶]◯典教/規範、手本、五常、などのオシエ。教義。◯於欲/心に感じる。思う。◯絶/タエ。とだえ。

◇風猷や典教といった表記は仏法からとった熟語であり、現代と同様に音読み単語になっていたと思われます。これを表わす日本語(やまと言葉)はないでしょうし、無理に日本語にする必要も感じません。

 

◇ここまで(前段一・二・三)が、《古事記》本文の事象及び天皇史について書かれたものです。そして、最後にある三行棚字はその締め句(まとめ)として置かれています。

或いは当初の「序」前段は、本文に即した記事が、一段から五段の全てを使って書かれていたのではないか。それが何らかの理由で、三段に圧縮されてこんな姿になったのかも知れません。

《記》本文には登場しない天武の記事が、この後(前段四・五)に続きます。これが安萬侶にとって本意だったのかどうか…気になるところです。

 

*ここまで一応フシメ(節目)を置いて並べられてはいますが、その纏まりのない文章のひと固まりを、文節と表示するのには多少の抵抗感を覚えます。よって、総じて文群と呼ぶことにします。

《前段・三》了。

 

・・・ヲグナ・・・