漢字の扱い「御」⑵

「御」という字

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◇「アキツノ」とは。

その昔、アキツノという言葉が有りました。この語音で表わす言葉には、幾つかの全く意味の異なる形があります。

 

・「アキ・ツノ」は狩場。
アキは食料・食材を意味し、それを獲る土地(野)なので、アキ・ツノです。助詞のツ(ヅ)の音を省いてアキノともいいます。この音に阿岐豆野、秋野、といった字を充てます。
かつて物々交換をアキ・ナイ()といいました。アキ・ツ・アキ(モノとモノ)→アキ・ヌ・アイ→アキナイと移ります。
〔アジ〕という語音もまたアキであり、キが→チ→ヂと移ってアキ→アヂになる。(またはキがシになり、アキ→アシ→アジの形も有り得る)

食材はですが調理をした食べ物は(クェ)になり、食べる事は(ク)の音を使いました。
料理を作る人をアケツ・ツキ、これが女ならアケツ・ツメ、アがアハ→オホと音転して、アハケツ・ツメ→オホゲツ・ヒメと呼ばれる。(大氣津比賣、大宜津比賣などは充字)

 

・「キツノ」は無垢な土地。
人の手が入ってない土地をキツノといいました。多くは、土地が痩せていて農地としては使えない、荒地や湿地で居住地としても使えません。そこで、墓地として使われる事がしばしばありました。
「キツ」は色々な音に移ります。キツノ(吉野)、キタノ(北野)、クサノ(草野)、ヒラノ(平野)、イシノ(石野)、シツノ(志野)、ヒツノ(日野)…。埋葬地が多い。

 

・「ア・キツノ」は風光明媚な土地。
キツノ(自然地)の中でも、ある程度の広さを持った平地また丘陵地で、景色が美しく心地よい土地は、頭にアを付けてアキツノと呼びます。

このの音にを使い、キツノ吉野を充て、アキツ御吉野と表記されます。またアキシノと転じた音には秋篠といった文字が使われます。(※地名国名[036][037]2022-01-04参照)

 

 

*「御吉野」の音

《雄略記》に次のような歌があります。文中で先ず詞書に、阿岐豆野〔アキヅノ〕の文字が使われる。これは狩場のアキ・ツノでしょう。

その後に続けて、歌では美延斯怒〔ミエシノ〕と真假名表記になっています。※獦=狩また猟。

 卽幸阿岐豆野而 御獦之時
 天皇坐御吳床 爾虻咋御腕
 卽蜻蛉來 咋其虻而飛    訓蜻蛉云阿岐豆。

 即ちアキヅノに行きて、御獦の時
 天皇御吳床に坐す、ここに御腕に虻咋つ
 即〔ハヤ〕蜻蛉〔アキヅ〕来て、その虻咋いて飛びつ
           蜻蛉の訓みをアキヅと云う。

 

 於是作御歌
 其歌曰
 美延斯怒能 袁牟漏賀多氣爾
 志斯布須登 多禮曾
 意富麻幣爾 麻袁須

 ここに 御歌作る
 其の歌、曰〔まをし〕つらく
 みえしのの をむろ嶽〔ガタケ〕に
 シシふすと 誰〔タレ〕そ
 おほまへに まをす
  〈一部、省略〉

 

 故自其時
 號其野謂 阿岐豆野

 故に其の時より
 其の野を號〔ナヅケ〕て謂う、アキヅノ也。

 

◇ここに大きな疑問を持たない訳にはいかない。この歌はアキツの音をテーマにしています。アキヅノ(阿岐豆野)、アキヅ(蜻蛉)、アム・クィツ(虻・咋いつ)などを並べます。

にも関わらず、なぜ詞書は美延斯怒〔ミエシノ〕なのか。

始まりの音はアキツノだったのが、
アキツノ→ 御吉野 →美延斯怒〔ミエシノ〕 
と、“ 伝言ゲーム” のように移ったのではないだろうか。

A部族(先住者)はアキツの音に御吉野の字を充てたが、この表記をB部族(侵入者)はミエシノと読み、さらにその音を假名で美延斯怒と書いた。

御獦や御腕に「御」の字を使っており、紛らわしさを嫌い、御吉野という表記を避けて假名書きしたのか。

または、単にB部族(侵入者)の無知による誤りか。或いは、分かった上で敢えて意図的に自分達の言葉にしたか。

 

 

◇「御」の用途 ━━━━━━

記紀に於けるの扱いは、次のような音と意味を以って使われていた、という思いを持ちます。
(1・発音。2・意味。3・例。)

  • 1・「クィ)」「ムィ)」
    2・(者)の上級文字。
    3・天津アキツアキツ〕。建津御〔タケツ、(タケツ〕。
  • 1・「ムィ)」
    2・身体を指す語。
    3・合〔あわせ〕、交合の意。
  • 1・「
    2・自身を指す語。
    3・身〔ガミ、またガミ〕、御=吾、我。
  • 1・「アムアンアハ
    2・の意。接頭語。
    3・吉野〔キツノ、アムキツノ〕。
  • 1・「
    2・敬称の接頭辞。
    3・名〔ミナ〕。世〔ミヨ〕。

 

*大きく分けて、
 ①「自身」と「身体」の意。→ また
 ②「大きい」や「優れたモノ」の意。→ 
 ③「誉める」接頭辞。→ 
一般的にはこの様な用い方であり、むしろ敬称の接頭辞である③の「ミ」が特殊であるとさえ感じます。

しかしながら、記紀に於けるの扱いについて今では③の意味だけが正しい用法と解釈されています。①と②の形で使われていた事を考える事すら有りません。

の字について今一度、もう少し真剣に考えてみる必要があるように思います。

 

▽ちなみに
ある日、《古事記伝》(本居宣長著)を読んでいて、次のような短い文章が目にとまりました。
小文字で書かれていたので、後からの加筆と思われます。

「御を身の意ぞなど云説は非なり」

…驚いた。
これは宣長の時代にあって“御は身ではないか”と考える人が居たということです。

だけど、大権威(宣長)によって、はかなくも瞬時に却下されてしまったようです。宣長の門人達からも嘲笑の視線を向けられたかも知れません。

 

上代に於ける漢字の使われ方の一つとして、確かに「御は身」の意でも使う部族があった。
そう考える人間が、少なくとも二人(筆者と某の人)が存在します。

 

漢字の扱い「御」⑴

「御」という字

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◇「御」という

 現代の日本語での文字は、おん、の音で使われます。御名前なまえ〕、御召し物めしもの〕、御社やしろ〕。会社の場合は御社おんシャ〕
また御案内アンナイ〕、御馳走チソウ〕、御足労ソクロウ〕、御免メン〕…といった使い方をしますね。
御輿〔こし〕、御魂〔たま〕、御厨〔くりや〕、御手洗〔たらい〕などの御はと読みますが、これは現代の用法ではありません

和語に付く場合はになり、漢音読み単語にはの音になる事が多い。ただし、「御膳」はゼン、ゼン、と二様の読みをする例もあります。「ゴゼン」は食事、「おゼン」は食事を乗せる台であり意味も違ってきます。

或いは、台をいう「ゼン」という語、また御社〔おん・シャ〕の社〔シャ〕などは既に日本語化しているのかもしれません。

 

*装飾の「お」
頭に付くは、言葉を丁寧にするためと認識されていますが、そればかりでは無いでしょう。飾り音として、ただ乗せているだけ、というのも有ります。

おナカ(腹)、おシリ(尻)など、自分の体なのにを付ける。また、おイモ(芋)、おカラ(酒粕)、おマル(簡易便器)には要るか? 

これらは多くの場合、京都の公家ことば、宮中の女房ことばが、宮仕えの女性たちによって庶民にも広まったものでしょう。おカキ(かき餅)、おセン(煎餅)、おマン(饅頭)、おチリ(ちり紙)など、単語の後ろを省略して頭にを付ける表現もまた同様です。

これら頭のは言葉を柔らかくする効果が有るのかも知れません。ただ、これが丁寧語といえる程のものかというと、甚だ疑問です。

 

「お」が付き易い音
頭に付くはどんな語にも付着しますが、付き易い音がある様にも思います。

m音は唇で、k音は奧喉で、n音は先舌また唇で、それぞれ息を一旦遮断した後、これを開いて作り出す声なので、語頭にンの鼻音が付き易い。この(撥音)がに転じたのちにも変わります。

撥音は一般的に語中や語尾に付くものとされますが、古代また其れ以前の日本語では語頭につく事も珍しくはなかった。

コシ(輿)がミ・コシ(御輿)なるのはいいが、更に「ミコシ」になる、クジ(籤)がミ・クジ(御籤)なるのはいいが、「ミクジ」になる、是らのは不必要でしょう。

この現象はミの頭にンが付いて「ミコシ」「ミクジ」と発音し、このンがオに変わるのが原因ではないか。

この様な単なる勢い付けの付着音には漢字の「御」より仮名の「お」使うのが望ましいでしょう。

 

*この「御」は接頭語か?
記紀などでは、神や高貴な存在(王またそれに関連したモノ)に対して丁寧に云う時は頭にの音を乗せ、その音に御の字を使うと認識されているようです。

天之中主尊、高産巣日神、天照大神、建雷命、実豆良、身之禊、…など、これらの御は全ての音を持つ接頭語として扱われますね。

例えば、天之中主は、アメの・ナカヌシ、と読まれています。御は中主を丁寧にいう為のになります。他の名称の使い方も皆同じです。しかし、この扱い方は果たして正しいのか。

 

*多様な「御」
「御」の使い方については、地域、時代、部族の違いによるものが有ると思われ、上代に於いての用い方は一つでは無かったと考えられます。

例えば、
人、者、自身(人格)、身体(肉体)、などを表わす言葉にはキやミが使われます。通常はその音に、キ=岐伎、ミ=身見美、などの文字が充てられますが、重要な立場の者が対象になるとの文字も使われるのではないか。記紀からはそんな御が見えてきます。

よって、
天之御中主でいうと「天之・御中主〔アメノ・ナカヌシ〕」と切るのではなく、天をアキ、之をツ(またツ)とし…、

天之御アキツキ、またアキツミ〕・中主〔ナカヌシ〕

と読むのが、此の文字を最初に用いた人の意図ではなかったかと思う。

そして、
原音である「アキツキ・カツキ」(天之御・中主)とは、この世の質量全てを司る意思、謂わば「宇宙神」を、いうのでしょう。

 

 

▽ちなみに
アキツキ」とは主人、統率者、というのが基本的な意味です。一般的には、王、氏長、家長、など集団の規模に関わらず、リーダーを表わす普通名詞です。
アは大、キツキはモノ(者=生命体)の意。

古事記》では、大国主を淤富久邇奴斯〔オホクニヌシ〕と、歌などで假名書きされています。

 ア・キツキ→アハ・キナツキ→オホ・クニヌシ。

キツキの先のキが撥ねて、ツキ→キナツキといった膨張転化し、ツキがヌシに移る。
この音に意味に則した大国主の字が充てられたと思われます。

 

「古事記に於ける漢字の扱い」

 

◇「漢字の使い方」

漢字とは基本的に表意文字ですが、日本人は昔から表音文字としても使ってきました。恐らく、漢字に接し始めた初期の頃から、借音記号として使ってたのではないか。

普段使っている言葉を文字化したいと思った時、声をそのまま表せる假名書きは、間違いなく手っ取り早い方法だったでしょう。

假名のみによる表現と、意味を持った文字としての表現、この二つを使いながら、日本人は漢字に馴染んで行ったと思われます。そして、漢字假名交じり文(假名も漢字)=表意表音・混じり書き、へと進みます。

 

*「記紀」の表現
古事記は和語を基本としており、書紀は純漢文で書かれる。記紀を書いた人たちは、その文章をどの様な音で読む事を前提としていたのでしょうか。これは当時の日本語に関わってくる事なので、難しい課題です。

和歌や祝詞〔のりと〕など、話し言葉に近い文字群を見ながら、探っていくしか無いですね。使われている漢字の音は、同じ単語に対して、異なる文字が假名として使われていれば、その音はある程度特定されるかも知れません。

 

 

◇《古事記》歌に使われる假名

《記》の歌は假名(表音文字)で書かれています。しかし、この時代に在っては未だ一つの音に対して一つの文字が定まっていた訳ではありません。同じ音を持つ別の文字が使われる事も多々あります。これは「思いつくまま適当に」ではなく、「この方が変化があって面白い」と、意図的にやっているように思われます。

 

*「假名」
歌に使われる“音書き”は、次の様な文字が使われます。(※キヒミ.ケヘメ.コソトノモ、ギビ.ゲベ.ゴド、この各音は二種〈甲類、乙類〉がある。)

───────────
伊韋遠於淤意
加迦何岐棄紀貴疑久玖古許胡
何賀藝疑牙宜
志斯芝士勢世曾蘇
耶奢邪叙存
多當田知遲)。等登杼斗刀
陀田〈伝〉杼度)。
)。爾邇(野)。能怒
)。比斐肥(富)。幣閇富本菩
毘備倍辨)。
麻摩微美味)。賣米毛母
余與用)。
良羅流留呂盧藘漏路
)。ヰ韋袁遠

───────────
※此処に示すのは、あくまで歌に使われる文字であり、通常の記事ではこれ等以外の文字も使われます。

・「遠袁」の字
遠はオヲの両方で使うが、袁はヲのみでありオで使うことはない。ヲの発音は と書くことができます。この音を遡るとに行き着きます。キ→キ→ク→ウ(wo)と移る。
男尾緒など今はと読む字も、元はキから転じた(ウ)です。

・「ザ行音」
カタ仮名で書けばザジズゼゾですが、使われている文字を見ると、ジァ・ジィ・ジゥ・ジェ・ジォ、の発音もあったか。現在でも地域によって高齢者がセンセイ(先生)をシェンシェイ、ゼンザイ(善哉)をジェンジイと発音する。

・「テ」の音
この中で「弖」だけが国字ですが、テの音を表わす漢字が無かったのか、何かの略字か。訓を持たないこの文字が生まれるに至った理由があるはず。

・「爾邇」の音
〔ni〕の音に使われますが、単語の中の二の音、助詞としての二、共に爾邇が用いられています。クニ(国)の音に久爾も有れば玖邇も有ります。

・「ハ行」の音
この時代ではh音を独立音として扱っていなかったと思われます。よってハ行音は、フ(ph)を基音とする拗音で、ファ・フィ・フゥ・フェ・フォ、と発音していたでしょう。

・「怒」の字
「多加佐士怒袁〔タカサジノヲ〕」高佐治野を…。
ここに使われる「怒」は「野」を表わす仮名として使うが、発音が「ノ」なのか「ヌ」なのかはハッキリしない。上代和語では野をヌとも発音していたフシがある。

・「毛母」の字
万葉集では、使われ方に違いは見受けられません。ただ、《記》では使い分けが為されていると、言われています。

・「牟」の字
和語にはの音が頻繁に出てくるが、これを表す漢字が無い。そこでムの音を持つ牟無无などの文字を便宜的に使っていた可能性がある。古代だけでなく平安時代の書き物にも目にします。

 

*「言霊〔ことだま〕
一般論として、歌や詩というのは内容さえ伝われば良いというものでは有りませんね。言葉そのものが持つ力、また旋律や言い回しが大切です。

記紀ともに歌は假名書きされています。漢詩のように漢字の音読み・訓書きで書いたのでは、俳句を英語で直訳したようなもので、意味は分かるでしょうが、空気感は伝わらない。執筆者はその事(音)の重要性を理解していたのでしょう。
※《記》には百余りの歌が掲載されていますが、正確な歌数については今のところ決めかねます。長歌の中には、これを一つの歌と見るか、複数の歌と解釈するかという問題があり、この分け方によって数が変わってきます。

 

◇「漢字假名混じり」

歌は和語・音書き使用(假名)で綴られていて、音を探るだけでよかった。しかし、《記》に於ける一般の文章は、音書き・訓書き、これを混ぜて使います。後年のように、ひら仮名・カタ仮名があれば、その違いは明瞭ですが、当時は假名も漢字です。それにより、音字が訓字かの判別に戸惑う。

後年の解釈の中には、音字仕様で書かれている文字を、訓字と受け取ってしまった説明も見受けられます。

 

*「音訓の誤解」
記紀や他の古文書に使われる漢字の受け止め方について、しばしば厄介な事が生じます。音書き(假名)として使う場合でも、その言葉の意味に関連した文字を使うことが、しばしばありますね。

読む人はこれを訓書きと判断してしまい、その解釈に依った“お話”が作られ伝承される。

例えば、山を表わす一般名詞であるキツ・カヤマが、→ミツ・ウァヤマと転じた音に「三・輪山」の字が充てられた。この三輪〔ミツワ〕から、赤糸が糸巻きに三巻きだけ残っていた話ができます。

昔噺にも影響をあたえます。敵対するキツ・カツマ(嶋・国)のキの音に鬼の字を使い「鬼・嶋」の字を充てだけなのに、鬼を訓読みにしてオニ・カシマ(鬼ヶ島)と読み、桃太郎の鬼退治になってしまいます。〈◎地名国名[008][009]「キツ・カツマ」2021.11.  参照。

漢字の訓に反射的に飛びつくのではなく、音書きの可能性も頭に置くべきでしょう。

 

▽ちなみに
古事記》の歌に使われる假名で「君が代」を書くとこんな感じ。

 貴微賀余波 知余爾夜知余爾
 佐奢禮斯能 伊波袁登那理弖
 許祁能牟須麻傳

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「十七世」

 

◇「十七世神」

*《古事記》上巻、大国主の条。

自八嶋士奴美神以下、遠津山岬帶神以前、稱十七世神。」

○八嶋士奴美神より以って下〔しも〕、遠津山岬帶神までを、十七世の神と稱〔ィ〕う。

 

*「十七世」とは、須佐之男命の子孫をいいます。須佐之男命は天照大御神の弟とされますが、同時に敵対勢力でもあります。にも関わらず、《記》では紙面を割いて紹介します。

《記》序では「前段・二」で、次のような変則的な書き様があります。一行ずつ読んで行くのではなく、二行全体で見ないと正しい解釈はできません。

 懸鏡 吐珠  而百王相續
 喫剣 切蛇  以萬神蕃息

天照大御神須佐之男命の件をいい、宇気比〔ウケヒ〕も含みます。(※薄字は天照の事)

※蕃息〔ハンソク〕は増え拡がることを言い、ここでは須佐之男の子孫の意。(「序」宇気比【解説・7】参照)

 

 

◇「系図

須佐之男命は八俣遠呂智を退治した後、櫛名田比賣を娶る。二人の間に生まれた八嶋士奴美神が嫡子になるが、この神から数えて末裔が十七代続くとしています。

 

《記》の記述。(☆漢字の羅列で見づらいです。)
須佐之男命)
故、其櫛名田比賣 以久美度邇起而
所生神 名謂八嶋士奴美神1
又娶大山津見神之女・名神大市比賣。
生子大年神。次宇迦之御魂神。二柱。

兄八嶋士奴美神、娶大山津見神之女・名木花知流比賣。生子布波能母遲久奴須奴神2)。此神、娶淤迦美神之女・名日河比賣。生子深淵之水夜禮花神3)。此神、娶天之都度閇知泥上神。生子淤美豆奴神4)。此神、娶布怒豆怒神之女・名布帝耳上神。生子天之冬衣神5)。此神、娶刺國大上神之女・名刺國若比賣。生子大國主神6)。亦名謂大穴牟遲神牟遲、亦名謂葦原色許男神色許、亦名謂八千矛神、亦名謂宇都志國玉神。幷有五名。

 

故、此大國主神、娶坐胸形奧津宮神多紀理毘賣命。
生子阿遲鉏高日子根神。次妹高比賣命。亦名下光比賣命。
此之阿遲鉏高日子根神者、今謂迦毛大御神者也。

大國主神、亦娶神屋楯比賣命。生子事代主神。亦娶八嶋牟遲能神之女・鳥耳神。生子鳥鳴海神7)。此神、娶日名照額田毘道男伊許知邇神。生子國忍富神8)。此神、娶葦那陀迦神。亦名八河江比賣。生子速甕之多氣佐波夜遲奴美神9)。此神、娶天之甕主神之女、前玉比賣。生子甕主日子神10)。此神、娶淤加美神之女・比那良志毘賣。生子多比理岐志麻流美神11)。此神、娶比比羅木之其花麻豆美神之女・活玉前玉比賣神。生子美呂浪神12)。此神、娶敷山主神之女、青沼馬沼押比賣。生子布忍富鳥鳴海神13)。此神、娶若盡女神。生子天日腹大科度美神14)。此神、娶天狹霧神之女、遠津待根神。生子遠津山岬多良斯神15)。
右件、自八嶋士奴美神以下、遠津山岬帶神以前。稱十七世神。

 

*あれ…? 十七世神としているのに、実数は15しか無い。数え間違い? 二人分の名を書き漏らした? 五の字を七と誤写?

確かに、こういったミスは《記》の文面の中で他でも見る事はあります。だから、“数字の書き間違いくらいは、大した問題ではない”、としましょう。

しかし、ここでの過ちは古事記ではなく、書写人でもなく、古事記を見る私達にある。「此神」の扱いを誤って解釈してしまっています。

 

 

◇「此神」とは

*上に示した系図は、全て直列に繋いだ解釈をしています。それは「此神」の対象者を、この表記の直前にある神としているからです。

ちょっと不自然さを感じます。多くの神の名が並びますが、重要な存在はただ二人、八嶋士奴美神と大国主神です。ならば「此神」は次のような位置付けにすべきではないでしょうか。

 

◇(須佐之男命)
 故 其櫛名田比賣
   以久美度邇起而 所生神
   名 謂八嶋士奴美神

  又娶 大山津見神之女。
   名 神大市比賣。
   生子大年神
   次 宇迦之御魂神。二柱。


 兄八嶋士奴美、      (1)
   娶 大山津見神之女
   名 木花知流比賣。
   生子布波能母遲久奴須奴神。  ①

 
   娶 淤迦美神之女
   名 日河比賣。
   生子深淵之水夜禮花神。    ②

 
   娶 天之都度閇知泥神
   生子淤美豆奴神。       ③

 
   娶 布怒豆怒神之女
   生名布帝耳上神。       ④
   子 天之冬衣神。

 
   娶 刺國大上神之女
   名 刺國若比賣。
   生子大國主神。        ⑤ 
     亦名謂大穴牟遲神
     亦名謂葦原色許男神
     亦名謂八千矛神
     亦名謂宇都志國玉神
     幷有五名。

 


 故此大國主、       (2)
   娶 坐胸形奧津宮神
     多紀理毘賣命。
   生子阿遲鉏高日子根神。    ① 
   次 妹高比賣命。
     亦名下光比賣命

 此之阿遲鉏高日子根神者
 今謂迦毛大御神者也。


 大國主
  亦娶 神屋楯比賣命。
   生子事代主神。        ②

  亦娶 八嶋牟遲能神之女
     鳥耳神。
   生子鳥鳴海神。        ③

 
   娶 日名照額田毘道男伊許知邇神
   生子國忍富神。        ④

 
   娶 葦那陀迦神
     亦名八河江比賣。
   生子速甕之多氣佐波夜遲奴美神。⑤

 
   娶 天之甕主神之女
     前玉比賣。
   生子甕主日子神。       ⑥

 
   娶 淤加美神之女
     比那良志毘賣。
   生子多比理岐志麻流美神。   ⑦

 
   娶 比比羅木之其花麻豆美神之女
     活玉前玉比賣神。
   生子美呂浪神。        ⑧

 
   娶 敷山主神之女
     青沼馬沼押比賣。
   生子布忍富鳥鳴海神。     ⑨

 
   娶 若盡女神。
   生子天日腹大科度美神。    ⑩

 
   娶 天狹霧神之女
     遠津待根神。
   生子遠津山岬多良斯神。    ⑪


右件、自八嶋士奴美神 以下、
   遠津山岬帶神 以前。
   稱十七世神。

 

◯ここに有る「此神」は八嶋士奴美神、また大国主神を示すものです。大国主神の場合、初めの阿遲鉏高日子根神の所では「此大国主神」と書き、2番目の事代主神・鳥耳神では「大国主神」と書きますが、3番目以降は「此神」と省略しているに過ぎない。

 

八嶋士奴美神には妻子5家族。その子・大國主神には妻子11家族(阿遲鉏高日子根神及び、その他の神)がいます。
八嶋士奴美神が。その妻子が大国主神の妻子が11
よって、「1+5+11=17」という数字になる。
つまり十七世とは、十七世代ではなく、十七世帯、を意味しているという事です。

 


◇直列「此神」

ここに示した系図では、(須佐之男命)─ 八嶋士奴美神 ─ 大国主神 ─ 阿遲鉏高日子根神。この家督継承は直列ですが、その他は並列に置かれる「異母兄弟」とすべきでしょう。※従来の解釈(全直列)では、大国主の総領である阿遲鉏高日子根神が、その列に入っていないのも、おかしな話です。

 

*是に依り、大国主神は、須佐之男命の六代末裔ではなく、須佐之男命の孫、ということになります。

すると、須佐之男命の女〔ムスメ〕須勢理毘賣と、孫の大国主神(葦原色許男、また大穴牟遲神)が駈落ちしても(時空間的条件に於いて)何ら不自然な事ではありません。

血縁的には叔母と甥ですが、コナミ須佐之男が古くに娶った妻)との間の孫(大穴牟遲)と、ウワナリ(最近に娶った妻)との間の女ムスメ(須勢理毘賣)とすれば、二人の年齢は近かったのでしょう。須勢理毘賣のほうが年下だった可能性さえある)

須佐之男命は記録上、少なくとも二人の妻(櫛名田比賣と神大市比賣。共に男子を生む)を娶っていますが、他にも妻がいたのでしょう。系図に記されるのは男子を産んだ妻のみであり、女子しかいない場合は記さない。

櫛名田比賣コナミ/古妻)のあと、何人目かの妻(ウワナリ/新妻)を娶ったのは、十五〜二十年くらい経ってからなのかも知れません。その妻との間に女子(須勢理毘賣)が生まれていたと考えられます。

 

*こうなってくると、あの天孫降臨というのが、天照大御神の孫(邇邇芸命)と、須佐之男命の孫(大国主神)の代での争い、という構図になります。俄然、現実味が増す話になってきました。

須佐之男命は数百年生きた、その娘(須世理毘賣)と六代あとの大国主(葦原色許男、大穴牟遲神とも云う)が結婚した、という何でも有りの神話的解釈をする必要も無くなります。

─  『天孫』とは。実のところ、勝った方が正義(天照大御神系)を名告り、負けた方が悪役(須佐之男命系)を押し付けられた、という事でしょうけどね。しかし、古事記は悪役であっても尊重し、書紀はそれを切り捨てる。 ─

 

 

▽ちなみに
十七という数には、また別の問題がありますが、それに関しては改めて機会を作りたいと思います。

 

・あぁ…、また長い文章になってしまった。ゴメン。

「記紀」の書き出し

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「書き始め文」

*《古事記》の「序」では、この世の始まりを次のような二行・十六文字(プラス棚字)で表し、これを冒頭句として据えます。(※【解説・3】冒頭句。2021-6-11、参照)

  夫 混元既凝 氣象未效
    無名無為 誰知其形

  然 乾坤初分 參神作造化之首
    陰陽斯開 二靈爲群品之祖

 

 

*《記》の「本文」では、この世の始まりに付いての記述は「天地初發」のたった四文字だけで、ほぼ無きに等しく、いきなり神々が登場します。

もっと言うと、ここの天地初發は「序」に於ける乾坤初分に該当する句と考えれば、《記》本文には冒頭文(この世の始まり)が無い、とも言えます。安萬侶は何故、それを置かなかったのでしょう。

   天地初發 之時
   高天原 成神
   名 天之御中主神。
   次 高御產巢日神。
   次 神產巢日神
   此三柱神者
   並獨神成坐而 隱身也。


 次 國稚 如浮脂而
   久羅下那州多陀用幣流 之時

   如葦牙因萌騰之物而 成神
   名 宇摩志阿斯訶備比古遲神。
   次 天之常立神
   此二柱神
   亦獨神成坐而 隱身也。

 

◯天地が分離して、天の神、地(海)の神が顕れ、そして隠れます。その次に顕れる阿斯訶備比古遲〔アシカビヒコ・ヂ〕や天之常立〔トコタチ〕は、土または固体(の象徴神)を意味します。

 

 

*《書紀》では、次のような文章①で始まり、これに続いて神々の名(の部分)が並びます。


古天地未剖陰陽不分渾沌如鶏子溟涬含牙淸陽者薄靡爲天重濁者淹滯爲地精妙之合搏易重濁之凝竭難故天先成而地後定然後神聖生其中焉故曰開闢之初洲壞浮漂猶游魚之浮水上也。于時、天地之中生一物狀如葦牙。便化爲神國常立尊至貴曰尊自餘曰命、並訓美舉等也下皆效此。次國狹槌尊、次豐斟渟尊、凡三神矣。乾道獨化、所以成此純男。

 

○書紀の書き出し文(この世の始まり)については「…神聖生其中焉。」まで、とするのが定説化しています。しかし、話の転換場面では「于時」がしばしば使われます。

この文章でいえば、『この世の始まりの頃、濁混の中に一切の生命活動はなかった。悠久の時を経たのち、天地分離の刺激に伴って僅かではあるが水の中にエネルギーの兆しが生まれつつあった』という意味の説明記載をした後、これに続いて「于時、天地之中生一物…」と、神々誕生の話に入ります。
したがって「于時」の直前「…浮水上也。」までが冒頭文として一区切りと見ていいでしょう。

ただ、此処に妙なモノが見えてきます。この「詰め書き」された文章を「並び書き」にしてみると②の形になります。


 古天地未剖陰陽不分
 渾沌如鶏子溟涬含牙
 其淸陽者薄靡爲天
 重濁者淹滯爲地
 精妙之合搏易
 重濁之凝竭難
 故天先成而地後定
 然後神聖生其中焉
 故曰開闢之初洲壞浮漂
 譬猶游魚之浮水上也。

 

さらに②を少し手直しして「飾り書き」にすると次の③になります。各行に一文字分の空き升を設けて上句下句に分ける。前から二行目、後ろから二行目に棚字を置くことで全て二行一組、且つ左右対称の構成となりました。

例えば、「」の字はマタと読み、③の位置に置かれるべきでしょう。この飾り書き③を「詰め書き」にしたものが次の④です。(※青字は①②と③④との間で、加除、移動、が為されたと思われる部分)


   古天地未剖 陰陽不分
  渾沌如鶏子 溟涬含牙
   其淸陽者 薄靡爲天
   重濁者 淹滯爲地
   精妙之 合搏易
   重濁之 凝竭難
   故天先成 而地後定
   然後聖神 生其中焉
 故 曰開闢之初 洲壞浮漂
   譬猶游之魚 浮水上也



古天地未剖陰陽不分渾沌如鶏子溟涬含牙其淸陽者薄靡爲天重濁者淹滯爲地精妙之合搏易重濁之凝竭難故天先成而地後定然後聖神生其中焉故曰開闢之初洲壞浮漂譬猶游之魚浮水上也。

 

①~④を並べて見て、その画面構成に於いて③が最も美しいのは誰の眼にも明らかですよね。中央上りの構図(行末の稜線)は、立ち騰〔のぼ〕る強いエネルギーを表現しています。二行一対を五組揃えた文型は、二気五行を意識した構図ですね。

一つの文群の、“前から二行目と、後ろから二行目に棚字を置く” という形は、《記》序の前段・三と五でも使われています。レイアウトとして定番の一つなのでしょう。

 

始めに書かれたのは、恐らくこの③であったでしょう。ただ、この文章が何時作られたのかは定かではありません。記紀が出来るより遥か昔から有ったのか、最近(八世紀になってから)誰かが作ったのか、とにかく、書紀作りの命により集められた資料群の中にソレは有った。

この文を基にして、書紀の執筆者は漢文としての不備な部分に手を加え(而の字の乱用)①の文章を作った。つまり、③→④→①の順で移っていったと思われます。或いは、③から直接①への書き変えが行われたか。

いずれにしろ、①への転写では幾つもの箇所で文字の刪改が行われたことにより、読み下しにも微妙な変化が出てきます。

最終の語句を見てみると、①②では「譬〔たとえ〕ば游魚〔ユウギョ〕の水の上〔ヘ〕に浮けるが猶〔ごと〕し」となるのに対し、③④では「譬えば游〔たわむれ〕し魚〔ヲ〕の猶く、水の上に浮きぢ」と違いが生じる。さて、どちらが自然な文章でしょうか。

 

○此の文章、元々は古事記(本文、または序)の書き出し文だったのでは? 其れを剥ぎ取って通常の漢文になるよう手を加え、書紀の書き出し文に使ったか・・・? ③を見てるとそんな疑念が、フワフワ浮遊(游れ浮かび)します。

全て推測です。残念ながら真実は分かりません。一つはっきりしているのは、飾り書きを一切排除している書紀の冒頭文が、元は二行一組を五つ並べた飾り書き(十行構成の文章)であった、という事実です。

 

▽ちなみに。
 書紀は、この世界が出来て最初に顕れた神を國常立尊〔クニノ トコタチ ノ ミコト〕としています。
幾つかの一書曰では、色々な神の名も並べますが、本文では國常立という立場を採っていますね。

《記》に「三柱神…隱身也。國稚…、成神」〈三神が顕れ、隠れました。次に国稚〔わか〕く…、成る神--〉

書紀に「故天先成而地後定」〈天が先に成り、地(海)が後に定まる〉

と、書かれているにも関わらずです。「地後定」としているのに、“ 底土 ” を最初の神とする。常立〔トコタチ〕(また底立〔ソコタチ〕とも書く)の元の音は土を意味するツキツキですが、其のコトに全く気付かない。

 

 

*分厚い漢字辞典を携えてやって来て、画数の多い漢字をやたらと好み、その国に残る文章を純漢文に変換する、そんな作業を請け負う代書屋。彼ら(書紀執筆者)は、案外そんな人達だったのかも知れません。

 

「序」の構成

【 解説・26 】
「二段説と三段説」

◇「構成」二段・各五節
 《古事記》の序は、二段(前段・後段)から成っており、それぞれ五つの文群に分けられた画面構成に仕立てられています。おそらく二気五行の考え方に則ったものでしょう。
序を見ると、《記》とは国史と云うよりも天皇家の家史といつた趣きの書であるように見えます。
古事記「序」の姿(2021-05-06)、参照。

 

 

【 二段説

◯「前段」
《一》濁混状態から天地が分かれた。それに合わせる様に、凡〔アラ〕ゆるモノの一対化「陰陽現象」が始まり、この世が形造られるその前兆を表わす。これを冒頭句とする。(現世起源)

《二》この世が出来て最初に顕れた神の天之御中主神から伊邪那岐命伊邪那美命天照大御神邇邇芸命、そして神武天皇に至る直前までの、王家の歴史を要約した文章であり、天皇宇宙神・太陽神の末裔である事を示す。(神の時代)

《三》神武に続く天皇の中で、崇神天皇仁徳天皇など数人を取り上げて記載する。(人の時代)
また、歴史を記した書物の内容が乱れていることを危惧し、これを正さなくてはならない、という言葉を締め句として置く。

《四》と《五》は、天武天皇の事蹟を載せる。古事記本文では扱わない大王に付いての記事。(壬申の乱と、即位後の治世)

 

◯「後段」
《一》国史作りに関する元明天皇(四三代)の思いを込めた詔を示す。

《二》稗田阿禮の紹介と、国史が未だ出来上がらない(運移世異 未行其事矣)ことを憂う。この運移世異とは天皇の代替わりや、平城京への遷都を云う。元明の代になって改めて「国史を完成させよ」との詔が発せられたということであろう。

《三》時の天子(元明)に対する賛辞。言祝〔コトホギ〕、寿詞〔ヨゴト〕などと呼ばれる。マツキの辞(メデタキ、マンヅイの祝詞)であり、後段(一 〜 五)の真ん中に置かれる装飾文。

《四》元明天皇が正式に詔をした日と、編纂作業に携わる者を記す。帝皇日継(王家の系図)は早い段階で出来上がっていたが、旧辞(伝承話)の原稿が滞っていた。

そこで天皇は語臣の者(語ノ阿礼、亦名稗田阿礼)に命じ、持ちネタを語らせた。その物語を安萬侶が詳細に文字化していき、完成したので献上することを述べる。

《五》文を綴る上での形式を説明する。文字の音訓表記に於ける利用方式(混淆・単一)や注釈の有無、また因習的表記はそのまま用いるなどをいう。

 

*「大抵所記者」以降の記載、〔書目〕と〔署名〕は序文に含まない。

 

 


三段説 

 一般的には三段説が主流ですが、そこでは序を次のように分けています。  ※〈 〉内は飾り書き(二段説)での位置を示す。

◯一段目、「臣安萬侶言」〈名告り〉から「・・・典教於欲絶」〈前段三、末行〉まで。

◯二段目、「曁飛鳥淸原大宮」〈前段四、一行目〉から「・・・未行其事矣」〈後段二、末行〉まで。

◯三段目、「伏惟皇帝陛下」〈後段三、一行目〉から最終行〈署名〉まで。

 

◇これにより、二段目は全て天武天皇に関わるものとされる。その結果、《古事記》編纂を命じたのも、阿禮にミコトノリしたのも天武天皇という判断が為され、現在ではこの解釈が定着しています。

あるいは「天武が国史記紀)作りを命じた人」という前提が盤石な先入観として意識下にあり、これを外す結論には持っていけない、という姿勢が、この様な分け方に落とさざるを得なかった、という事かも知れません。

稗田阿禮は元明天皇の時代に在って28歳(和銅四年九月の時点)の人である。よって、恐らく天武天皇には会ったことも無いでしょう。この現実を三段説は見えなくしてしまっている。

 

◇《記》の執筆に際して集められた資料は、日本書紀日本紀)の執筆者も大いに参考にしたでしょう。そして《古事記》もまた資料の一つとして、書紀の中では「一書曰」としての扱いとなった。

《記》偽書説の理由の一つに「続日本紀の中に《記》に関する記述が全く出てこない」というのがあります。しかし、執筆者にとって書紀だけが正統な歴史書であって、それ以外は資料という認識であれば、取立てて記事の出所、資料の説明などを示す事などしないでしょう。

例えば、《記》も沢山の資料を元に書かれています。《記》の中に「この文は某氏がもつA書に記載される」とか、「この部分についてB書では異なる記述になっている」など、一切見ない。安萬侶もまた資料に付いては触れていません。(まさか、《記》の全てが阿禮の口で語られたものだけで出来ている…なんて思ってないでしょうね。)

書紀の編者や続日本紀の執筆者もまた、《記》を資料の一つとして処理したというだけの事です。

その時代にあっては、書紀こそがあらゆる面で「唯一の教科書」という位置付けであり、歴史教本の扱いになっていました。(後の時代には折々〔おりおり〕に、“日本紀勉強会”のようなものが行なわれている。)

 

◇《古事記》編纂室に集められた資料群は、日本書紀編纂室の棚に移された後、旧辞紀執筆者の机上などを転々と渡り、終〔ツイ〕には散逸して個人の文箱に入れられたまま、放置され朽ちていったか。

何はともあれ、《古事記》だけは(一部の“物好き”により)大事に書写伝承され守られた。

…完了。

「安萬侶」

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[太朝臣安萬侶]

 

「オオ(オホ)」の名についての記録
《神武記》伊波禮毘古(神武)の皇子・神八井耳命の子孫に意富臣の名が見える。
《綏靖紀》即位前に「神八井耳命…是即多臣之始祖也」とある。
《景行紀》十二年九月、多臣之祖之武諸木。
《天智紀》斉明七年九月、多臣蔣敷。
《天武紀》天武元年六月、湯沐令多臣品治。七月、(将軍)多臣品治。十二年十二月、小錦下多臣品治。十三年十一月、多臣(朝臣の姓、賜わる)。十四年九月、多朝臣品治。
《持統紀》十年八月、多臣品治。直広壱位の授け物を賜わる。
※意富、多、太、は文字の違いだけで元となる名は同じと思われる。ただ、実際のところ品治と安萬侶との間柄や血縁の有無は判らない。


安萬侶について
《續紀・三ノ巻》慶雲元年正月丁亥朔癸巳、正六位下朝臣安麻呂、授正五位下
《五ノ巻》和銅四年四月丙子朔壬午、正五位下朝臣安麻呂、授正五位上
《六ノ巻》霊亀元年正月甲申朔癸巳、叙從四位下。
《七ノ巻》二年九月乙未、為氏長。
《九ノ巻》養老七年七年庚午、民部卿從四位下太朝臣安麻呂卒。

正六位下正五位下正五位上→從四位下、と昇進。この中の正五位上の時、古事記を編纂する。養老七年(七二三)に卒した。享年不詳。

正六位下に至る以前の記事は見当たらない。親や子の名も不明。多氏系図には(宇氣古の子に多品治があり)品治の子として安麻呂、道麻呂、宅成、遠建治、などの名を置く。

ただし、この安麻呂は誰なのか(天武紀四年に、蘇賀臣安麻侶、また安摩侶という名が見える)、始めからここに安麻呂の名があったのか、後に書き加えられた可能性はないのか、などの疑問もあり鵜呑みにはできない。

 

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「多神社」
延喜式・神名長》多坐弥志理都比古〔オオニマス、ミシリツヒコ〕神社。
祭神は、
第一殿・神武天皇
第二殿・神八井耳命(神武の第二皇子)
第三殿・神淳名川耳命(神武の第三皇子、綏靖天皇
第四殿・姫御神(神武の母)

この内の第二殿に太安萬侶を合祀するが、これは後の時代の所業である。

この社は一般的に多〔オオ〕ノ神社と呼ばれ、大社〔オオのヤシロ〕、太社、意富社、などの表記もあり、神八井耳命の子孫とする多氏によって祀られる。

また、《神名帳》には、「大和国十市ノ郡ニ小杜神命ノ神社。或云、此神社在多社東南。今稱木下社、傳云祭安麻呂」〈大和国十市の郡に小杜〔コモリ〕ノ神ノ命の神社がある。或るいは云う、此の神社は多ノ社の東南に在る。今は木下〔コノシタ〕ノ社と稱し、安麻呂を祭ると云い伝える〉

《大和志》元文元年(一七三六)に、多神社の摂社として小杜神命神社の名がある。多氏一族とされる太安萬侶を祭神とする。

 

「墓」
 昭和五十四年(一九七九)一月二十二日、奈良市此瀬町の茶畑の斜面から銅板の墓誌と遺骨が発見された。墓誌には「左京四条四坊從四位下勳五等太朝臣安萬侶以癸亥、年七月六日卒之養老七年十二月十五日乙巳」の文字が刻まれていたが、この記述は先の資料とも合致する。
《續紀》養老七年の表記と照らして民部卿の字がない一方、勳五等の文字が入る。また後の調査で、銅板の表面には墨で何かが書かれていた形跡があるという。

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古事記の「序」は漢文で書かれているという。また、何を指してか知りませんが、四六駢儷体という人もいる。だが、ここに示した「飾り書き」を見る限り、漢文説には素直に頷けない。

確かに漢籍に見る文言が多く含まれていますが、これは漢文の一部の表現を借用しているに過ぎない。特に後段は日本語が基本であり、文字の順番を多少入れ替えて書いてはいますが、これは漢文のような雰囲気を加える当時の慣習のようなものです。

序の文体を変体漢文という人もいる。正式な漢文では無い漢文という意味だが、そもそも安萬侶には、始めから漢文で書く気などさらさら無かった。

ただこれが、見映えを欲する“時の天子様”の御気に召さなかったようで、古事記が献上されて其れほど時を置かずして、新たな国史作りの命が下る。出された意向は、巻数・三十巻、表記は純漢文というものでした。

 

古事記が献上されてから八年後の養老四年(七二〇)、飾り書きを完全に排除した日本書紀日本紀)の完成を迎える。

古事記・序のこと》…完。

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