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【 解説・5 】
《前段二/ⅱ》(3、4/16行)

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○所以に、幽(黄泉の国)と顯(この世)を出入(関わり)して帰還した後、全身の穢れを祓うため、海(塩水)と水(淡水)で浮沈(沐浴)した。

まず、海に入って身を滌〔すす〕いだ時、持ち物や衣服から、また潮流から多くの神ツ祇〔カムツキ〕が呈(現)れた。

河口に場所を移し、川の真水で目を洗〔あらいすすぎ〕した時、日神と月神(アキとツキ)が彰(顕)れた。

 

所以]コノユヱニ。(棚字)棚字は文章を構成する上で、あまり意味を持たないものが多い。ただし、画面構成上の飾り文字としての役割を持つ。

◇当時(奈良時代前期またそれ以前)の人達にとって、棚字は文章を書く際の書式形態として慣習化していたものと思われます。

前段二に置かれる棚字の文字数を見ると、先にあるのが一字・二字・一字、後にあるのが二字・一字・二字、とその字数がネガポジの形になっています。(これを仮に反転表記と呼ぶことにする)その他の前段三・四・五に置かれているのも、無秩序に散らばっているのでは無いのが分かるでしょう。

これらの文字について本居宣長は棚字(最上段に置く)という形に思いを至らせることは無かったが、あまり必要ではない文字とは気付いていたようで、「ここに所以といひ、次々に、故といひ、寔知といひ、即といへる、みなさしも意あるにあらず。ただ軽く看すぐすべし」《古事記伝》と、あしらっている。正解ですね。

 

出入]イヅイリ。またイデイリ。関わる。接触する。[幽顯]この世とあの世。◯幽/幽界・暗い・黄泉。◯顯/顕界・明らか・現世。◇伊邪那岐は、亡くなった妻伊邪那美を呼び戻そうと黄泉国に出向いて行く。だが話し合いは決裂した上に攻撃を受け、逃げ帰ってくる。

日月彰於洗目]◯日月/太陽と陰陽。アキツキとツキツキ。主と補佐。◯彰/顕れる。明らか。姿を見せる。◯於洗目/メをススギ。目を真水で漱ぐ。

◇洗の字を一般的にはアライと読みますが、アライとはアダキ(穢れ)、アツキ(汚れ)、アシキ(悪しき)などを表わす音であり、アシキ祓い、アライ流し、などと使う言葉です。

洗の字は、まず汚れを除去する行為をいい、よってサンズイ偏に先と書く。そして後にススギ(濯)を行いますが、この一連の作業を洗濯といいます。

ただし、ここでの洗の字は用い方がそれとは異なっていて、汚れを落としたあとの真水によるススギを意味する文字として使っています。

於洗目は「目をすすぐ」の意であり、洗を濯と同義として扱っています。或いは洗の一字でアライススギと読み、清めを表わす一つの言葉になっていたのでしょうか。

《霊異記》に「濯、須々支」とあり、《毛詩》に「濯ハ滌ナリ」などと記し、通常のススギには濯を、また漱滌などを用いて、洗の字を充てるのは稀です。

浮沈]カヅキ。水浴び。沐浴。記本文(応神記の歌など)に迦豆伎。水潜り。◇例えば、こんな音転も考えられます。カの音がキャと発音され、さらにキャウ→ギャウと転じ、キがイに変われば、カヅキ→ギャウヅイ(行水)の音になります。

また、キャウがチャウになれば、カヅキ→チャウヅキ(手水器)にもなります。後にチャウはチョウの音に移ります。手水器とは手水鉢ともいい、今で言う洗面器のことです。手水の字は意味に即した充て字です。

海水]ウシオとマミヅと。塩水と淡水。◇ここにある海水の表字は「海水」では無く「海水」と解釈すべきでしょう。水の字はしばしば川の意味で使われる事があります。

《仁徳紀》十一年冬十月の項に、「引南水以入西海…」〈南の水を以て西の海に引入れ…〉とありますが、ここでの水は大和川、または真水を指していますね。よって、海水は「海川」と解釈しても、何ら問題はないでしょう。

潮を清めの塩(洗剤)として穢れを落とし、最後に塩も一緒に川(真水)で漱ぎ清める事、と理解するのが自然です。真水で左右の目を漱いだ時に成ったのが天照大御神と月讀命ですね。

◇月讀命という名はこれ以降あまり登場しないので、影の薄い神、などという人もいますよね。天照大御神を輔〔タス〕ける者として、高御産巣日神はもちろん、思金神、高木神、といった存在、これが月讀〔ツキヨミ〕なのです。

さらには大国主に於ける大年神、大穴牟遲と少名毘古那。伊波禮毘古に大久米命、大王に於ける建内宿禰、といった呼称で常に登場しています。摂政、大番頭、今でいうと首相でしょうか。

全てアキツキ(王)に対してツキツキ(協力者、参謀、右腕〔みぎうで〕)です。ツキツキという音は、→ツキユミ(またツクヨミ)と移ります。

或いは、スキナキ・ツキ→ スキナ・ブキ→スクナビコと移る音です。また、→ツキツミ→タケツミ、にもなります。影が薄い? 何を見てるの? と、思ってしまいます。

ところで此の時、鼻を漱ぎ須佐之男も成った筈ですが、ここに無いのは何故でしょう。

神祇呈於滌身]◯神祇/カムツキ。武神。戦闘員。◯呈/アラ・アレ。あらわれ。◯於/ヲ。~にオイテ。◯滌/ススギ。穢れを取り除き清める。◯身/ミ。身の字には二通りの使い方(自身と身体)があるが、ここでは身体をいう。

◇神祇は、一般的な解釈に沿って、カミガミ(天ツ神・国ツ神)としたい所ですが、ここに見る神は概ね武人系です。

戦士を表わす呼称は幾つか有りまが、カムツキもそのうちの一つであり、この音に「神〔カム〕ツ祇〔キ〕」の字を充てたと考えます。

神の字が表音文字として使われるのは決して珍しい事ではありません。ここではカム(またカン)の音に充てる。また祇の字は、氏に「しめすへん」を飾り付けしたものでしょう。

氏の字は者(人)を表わすので、元の音はキです。これを単体でいう場合、キ→ンキ→ウチ→ウヂ、と転じます。

*武人の呼び名としてはもう一つ、ツツヌキというのも有ります。そして、ツツヌキは水の流れも意味します。そこから潮流や川の流れ(ツツヌキ)からカムツキが生まれたという設定になります。共に武人の意です。

住吉大社は元々海の神(潮=ツツヌキ)を祀る神社でした。後に同音の武人(筒之男)をも祀るようにもなっていきます。

ツツヌキは、ススヌヲ→スサノヲと転じます。ツツヌキのボスを、カツ・ツツヌキと言います。これが転じてハヤ・スサノヲの音になります。

ここ(序)には須佐之男の名こそ出て来ませんがツツヌキとして、また神祇の文字で、しっかり示されています。

 

◇記本文には御身之禊とあり目鼻には洗の字を、それ意外は全体として滌や禊の字を使っています。ここ(序)では目に洗、身には滌の字を使っており禊と同義として使います。

洗は浄化する、滌は穢れ落しと浄化仕上げ、という文字の使い分けが為されているようです。何れもミヅ・ススギまたススギが基本的な言い方です。

ただ、禊の字は儀式の色合いも加わるうちミソギという固有呼称になっていきます。

 

伊邪那岐は黄泉国から帰還し、一刻も早くこの耐え難い陰鬱な穢れを祓い清めたいと思った。しかし、その辺りの小川では手に負えないレベルの穢れである。そこで激しい流れを求めて鳴門海峡明石海峡を廻ってみたが流れが強すぎて、ちょっと怖い。特に鳴門は渦が巻いていて、見て直ぐ引き返した。(神様なのに)

そこから還って橘小門の阿波岐原という所で禊祓いをした。潮の流速も適度にあって、近くの河口は清らかな淡水である。この時、持ち物や衣類などから、また浴した潮流・河の流れから色々な神が成った。

黄泉国から帰還して、全身禊をして、武の神、日の神、月の神、が顕れた。これらの神は伊邪那岐から生まれました、という話でした。

 

▽ちなみに。
 認識しておかねばならない事が一つあります。「三種の神器」(鏡・勾玉・剣)とは何でしょう。アキツキ(王)、ツキツキ(行政の長)、ツツヌキ(武人)を象徴しています。

天之御中主・高御産巣日・神産巣日しかり、ここに見る天照・月読・神祇しかりです。言い換えれば、リーダーを中心に、優れた智将、勇敢かつ清廉な武将、これを表わします。

中心となる王が居て、これを輔ける参謀が居て、そして軍事を調〔トトノ〕える。これが国を作る基本理念とします。

この三つを象徴したものが、鏡=太陽(王)、勾玉=自らは発光しないが光を受けて輝く(大臣)、剣=穢れを討ち払う(武将)であり、これ即ち、三種の神器と呼ばれす。

ここに見る二行こそが、三種の神器の誕生を謳っていると言えます。

 

少々長くなってしまいましたが、お付き合い頂き、有り難う御座いました。《ヲグナ》