「安萬侶」

f:id:woguna:20220205155715j:image【 解説・25 】
[太朝臣安萬侶]

 

「オオ(オホ)」の名についての記録
《神武記》伊波禮毘古(神武)の皇子・神八井耳命の子孫に意富臣の名が見える。
《綏靖紀》即位前に「神八井耳命…是即多臣之始祖也」とある。
《景行紀》十二年九月、多臣之祖之武諸木。
《天智紀》斉明七年九月、多臣蔣敷。
《天武紀》天武元年六月、湯沐令多臣品治。七月、(将軍)多臣品治。十二年十二月、小錦下多臣品治。十三年十一月、多臣(朝臣の姓、賜わる)。十四年九月、多朝臣品治。
《持統紀》十年八月、多臣品治。直広壱位の授け物を賜わる。
※意富、多、太、は文字の違いだけで元となる名は同じと思われる。ただ、実際のところ品治と安萬侶との間柄や血縁の有無は判らない。


安萬侶について
《續紀・三ノ巻》慶雲元年正月丁亥朔癸巳、正六位下朝臣安麻呂、授正五位下
《五ノ巻》和銅四年四月丙子朔壬午、正五位下朝臣安麻呂、授正五位上
《六ノ巻》霊亀元年正月甲申朔癸巳、叙從四位下。
《七ノ巻》二年九月乙未、為氏長。
《九ノ巻》養老七年七年庚午、民部卿從四位下太朝臣安麻呂卒。

正六位下正五位下正五位上→從四位下、と昇進。この中の正五位上の時、古事記を編纂する。養老七年(七二三)に卒した。享年不詳。

正六位下に至る以前の記事は見当たらない。親や子の名も不明。多氏系図には(宇氣古の子に多品治があり)品治の子として安麻呂、道麻呂、宅成、遠建治、などの名を置く。

ただし、この安麻呂は誰なのか(天武紀四年に、蘇賀臣安麻侶、また安摩侶という名が見える)、始めからここに安麻呂の名があったのか、後に書き加えられた可能性はないのか、などの疑問もあり鵜呑みにはできない。

 

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「多神社」
延喜式・神名長》多坐弥志理都比古〔オオニマス、ミシリツヒコ〕神社。
祭神は、
第一殿・神武天皇
第二殿・神八井耳命(神武の第二皇子)
第三殿・神淳名川耳命(神武の第三皇子、綏靖天皇
第四殿・姫御神(神武の母)

この内の第二殿に太安萬侶を合祀するが、これは後の時代の所業である。

この社は一般的に多〔オオ〕ノ神社と呼ばれ、大社〔オオのヤシロ〕、太社、意富社、などの表記もあり、神八井耳命の子孫とする多氏によって祀られる。

また、《神名帳》には、「大和国十市ノ郡ニ小杜神命ノ神社。或云、此神社在多社東南。今稱木下社、傳云祭安麻呂」〈大和国十市の郡に小杜〔コモリ〕ノ神ノ命の神社がある。或るいは云う、此の神社は多ノ社の東南に在る。今は木下〔コノシタ〕ノ社と稱し、安麻呂を祭ると云い伝える〉

《大和志》元文元年(一七三六)に、多神社の摂社として小杜神命神社の名がある。多氏一族とされる太安萬侶を祭神とする。

 

「墓」
 昭和五十四年(一九七九)一月二十二日、奈良市此瀬町の茶畑の斜面から銅板の墓誌と遺骨が発見された。墓誌には「左京四条四坊從四位下勳五等太朝臣安萬侶以癸亥、年七月六日卒之養老七年十二月十五日乙巳」の文字が刻まれていたが、この記述は先の資料とも合致する。
《續紀》養老七年の表記と照らして民部卿の字がない一方、勳五等の文字が入る。また後の調査で、銅板の表面には墨で何かが書かれていた形跡があるという。

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古事記の「序」は漢文で書かれているという。また、何を指してか知りませんが、四六駢儷体という人もいる。だが、ここに示した「飾り書き」を見る限り、漢文説には素直に頷けない。

確かに漢籍に見る文言が多く含まれていますが、これは漢文の一部の表現を借用しているに過ぎない。特に後段は日本語が基本であり、文字の順番を多少入れ替えて書いてはいますが、これは漢文のような雰囲気を加える当時の慣習のようなものです。

序の文体を変体漢文という人もいる。正式な漢文では無い漢文という意味だが、そもそも安萬侶には、始めから漢文で書く気などさらさら無かった。

ただこれが、見映えを欲する“時の天子様”の御気に召さなかったようで、古事記が献上されて其れほど時を置かずして、新たな国史作りの命が下る。出された意向は、巻数・三十巻、表記は純漢文というものでした。

 

古事記が献上されてから八年後の養老四年(七二〇)、飾り書きを完全に排除した日本書紀日本紀)の完成を迎える。

古事記・序のこと》…完。

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